生きた時代と背景
1564年から1566年ごろ、日本のキリスト者家庭に生まれたとされます。安土のセミナリヨで学び、イエズス会へ入って日本語で教理を伝える説教師となりました。司祭叙階へ向けて養成中でしたが、まだ司祭ではありませんでした。日本の言語と文化を自ら生きる修道者として、各地の共同体を訪ねました。
聖人を知る・2月6日
日本人イエズス会士として福音を語り、長崎で二十五人の仲間とともに命を奪われる直前まで、迫害者への赦しを表した殉教者です。
祈りと言葉
自分の国と言葉のなかで信仰を伝え、死を前にしても敵意ではなく赦しを選んだ、日本の教会の初期を代表する証人です。
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全4編
1564年から1566年ごろ、日本のキリスト者家庭に生まれたとされます。安土のセミナリヨで学び、イエズス会へ入って日本語で教理を伝える説教師となりました。司祭叙階へ向けて養成中でしたが、まだ司祭ではありませんでした。日本の言語と文化を自ら生きる修道者として、各地の共同体を訪ねました。
1596年、豊臣秀吉の命令による迫害で、京都・大阪のフランシスコ会士、日本人イエズス会士、一般信徒らとともに捕らえられました。二十六人のなかには十代の少年も、既婚の一般信徒もいました。一行は京都から長崎まで歩かされました。この出来事をパウロ三木一人の物語にせず、名前と背景を持つ二十五人の仲間の共同証言として記憶する必要があります。
1597年2月5日、長崎の西坂で十字架にかけられました。伝承される証言では、パウロ三木は処刑の場から自分が日本人であること、キリストへの信仰のために死ぬこと、迫害する人々を赦すことを語りました。二十六人は1862年、教皇ピオ九世により列聖され、ローマ一般暦では2月6日に記念されます。
殉教を苦痛の劇的な描写や国家との単純な対立に縮めません。当時は国内統一、対外交易、宣教師と植民地勢力への警戒が絡み合っていました。その背景が処刑を正当化するわけではありません。暴力に直面しても他者を憎まず、日本語で信仰を語った共同体の記憶として伝えます。
出来事から読む
人物像と、今へのつながり
伝承を含む可能性のある事項は、出典の性格と合わせて紹介しています。
物語の舞台
日本
日本二十六聖人の概要を確認できる、カトリック中央協議会の公式Webコンテンツです。
確かめながら読む
最終更新日:
Holy See — Martyrology: Saint Paul Miki and Companions
Holy See — Homage to the Martyrs in Nagasaki
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