生きた時代と背景
815年ごろテサロニケに生まれ、東ローマ帝国の行政官としてスラヴ系住民の地域を治めた後、修道生活へ入りました。弟チリロとクリミア方面の任務を行い、のちに大モラヴィアへ派遣されます。兄弟の働きは一つですが、メトディオには行政経験、共同体の組織、弟子の養成を長く担った固有の生涯があり、弟の補助者だけとして扱えません。
聖人を知る・2月14日
弟チリロの死後もスラヴ語による典礼と教育を守り、投獄や対立のなかで地域の教会と弟子を育てた司教です。
祈りと言葉
言葉を尊重する宣教を、一時の企画ではなく、司牧、制度、弟子の養成によって次世代へつないだ人物です。
まず、ここから
全4編
815年ごろテサロニケに生まれ、東ローマ帝国の行政官としてスラヴ系住民の地域を治めた後、修道生活へ入りました。弟チリロとクリミア方面の任務を行い、のちに大モラヴィアへ派遣されます。兄弟の働きは一つですが、メトディオには行政経験、共同体の組織、弟子の養成を長く担った固有の生涯があり、弟の補助者だけとして扱えません。
二人はスラヴ語で聖書と典礼を伝え、ローマでその使用を説明しました。チリロが869年に亡くなった後、メトディオは司教に叙階され、パンノニアとモラヴィアで働きます。政治勢力と他地域の聖職者の反対によって拘束され、二年以上投獄されました。言語をめぐる争いは学術上の好みではなく、誰が教え、誰が共同体を率いるかという権力の問題でもありました。
教皇の介入で解放された後も、現地語の典礼、聖書翻訳、弟子の養成を続けました。一方で、東西の教会慣行や政治的管轄をめぐる対立は消えませんでした。メトディオを東方か西方のどちらかの勝利の象徴にせず、異なる伝統の間で交わりを求め、地域の人々が受け手にとどまらず担い手になる道を作った司牧者として紹介します。
885年に亡くなり、弟子たちは追放も経験しましたが、翻訳と教育の仕事は他地域へ受け継がれました。2月14日にチリロとともに記念され、ヨーロッパの共同保護者です。困難のなかで制度を整え、次の世代へ仕事を手渡した点に彼の重要性があります。文化への尊重を理念で終わらせず、人材育成と継続可能な共同体へ結びつけました。
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最終更新日:
Holy See — General Audience: Saints Cyril and Methodius
Holy See — Encyclical Slavorum Apostoli
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