生きた時代と背景
1894年、当時ロシア帝国支配下のポーランド、ズドゥニスカ・ヴォラに生まれました。コンベンツアル聖フランシスコ修道会に入り、ローマで学び、1918年に司祭となります。聖母への信心を中心とする「無原罪の聖母の騎士会」を始め、帰国後は雑誌出版と修道院ニエポカラヌフの運営を大規模に展開しました。
聖人を知る・8月14日
出版と宣教に取り組んだフランシスコ会司祭。アウシュヴィッツで、家族を持つ囚人の身代わりになることを申し出て殺されました。
祈りと言葉
祈りと新しいメディアを宣教へ用い、極限状況で隣人の命を守る選択をした一方、その言論活動も歴史的検討を要する人物です。
まず、ここから
全4編
1894年、当時ロシア帝国支配下のポーランド、ズドゥニスカ・ヴォラに生まれました。コンベンツアル聖フランシスコ修道会に入り、ローマで学び、1918年に司祭となります。聖母への信心を中心とする「無原罪の聖母の騎士会」を始め、帰国後は雑誌出版と修道院ニエポカラヌフの運営を大規模に展開しました。
1930年から1936年には日本へ派遣され、長崎で日本語版の雑誌を発行し、修道共同体の基礎を築きました。文化や言語への理解には時代的限界もありましたが、日本人協力者とともに出版を続けました。ポーランド帰国後、ナチス・ドイツの侵攻を受けた修道院では避難民を受け入れ、そのなかには多くのユダヤ人がいました。
1941年に逮捕され、アウシュヴィッツへ送られます。脱走者への報復として十人が餓死刑に選ばれた際、妻子を持つフランチシェク・ガヨヴニチェクに代わることを申し出ました。二週間以上の後、8月14日に薬物注射で殺されました。1982年、教皇ヨハネ・パウロ二世により殉教者として列聖されました。
身代わりの最期だけで生涯を切り取らず、出版活動の内容と当時の社会に含まれた反ユダヤ的表現についても研究があることを意識します。ユダヤ人避難民を助けた事実が、すべての言説を自動的に免責するわけではありません。ナチの加害責任を明確にし、本人の選択を収容所制度の残虐さの美化に使いません。
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人物像と、今へのつながり
現在の生活に引き寄せすぎず、その人自身の時代から考えます。
物語の舞台
ポーランド
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最終更新日:
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