生きた時代と背景
1874年、コロンビアのアンティオキア州ヘリコに生まれました。内戦で父が殺され財産も没収されたため、親族の家を移りながら貧困を経験しました。十六歳で家計を助けるため師範学校へ入り、正式な初等教育の不足を補いながら教師資格を得ました。各地で教え、教育と祈りを通して女性が公共的な働きを担う道を広げました。
聖人を知る
教師として働いた後、先住民族への人種差別に反対し、女性たちと共同生活を始めたコロンビアの修道会創立者です。宣教の権力差も検証します。
祈りと言葉
先住民族への露骨な人種差別に抗した教師・修道女です。その宣教も当事者の自己決定から検証され続けます。
まず、ここから
全4編
1874年、コロンビアのアンティオキア州ヘリコに生まれました。内戦で父が殺され財産も没収されたため、親族の家を移りながら貧困を経験しました。十六歳で家計を助けるため師範学校へ入り、正式な初等教育の不足を補いながら教師資格を得ました。各地で教え、教育と祈りを通して女性が公共的な働きを担う道を広げました。
当時、先住民族は公然と人間以下のように呼ばれ、土地と文化を脅かされていました。ラウラはこの人種差別に反対し、1914年、母と四人の女性とともにダベイバへ移住し、のちの無原罪のマリアとシエナの聖カタリナ宣教修道女会を始めました。現地の言語と生活に近づこうとした姿勢は、当時の一部の教会関係者からも嘲笑されました。
しかし「先住民族と同じになる」という本人側の表現だけで、対等な関係が実現したとは断定できません。改宗を目的とする教育には文化的圧力があり、先住民族自身の宗教、知識、自己決定を尊重したかは当事者資料からも検証が必要です。彼女の差別への抵抗を評価しつつ、宣教師を主人公、先住民族を受け手だけにする構図を避けます。
晩年の九年間は車椅子を使いながら共同体を指導し、1949年10月21日に亡くなりました。2004年に列福、2013年にコロンビア出身者として初めて列聖されました。一般暦の日付を確認できないため記念日は未設定です。現代の継承は、先住民族が自ら教育・教会・土地について決める権利を中心に置く必要があります。
出来事から読む
人物像と、今へのつながり
現在の生活に引き寄せすぎず、その人自身の時代から考えます。
物語の舞台
コロンビア
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最終更新日:
Holy See — Laura Montoya: Biography
Holy See — 2013 Canonization Liturgy Booklet
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