Saint & spirituality

福者ジュリアン中浦とは

少年期に天正遣欧使節として欧州を訪れ、帰国後に司祭となり、禁教下の長崎周辺で信徒へ仕えた日本人イエズス会士です。

この人物は誰か

少年期に天正遣欧使節として欧州を訪れ、帰国後に司祭となり、禁教下の長崎周辺で信徒へ仕えた日本人イエズス会士です。

生きた時代と背景

1568年ごろ、肥前国中浦、現在の長崎県西海市付近に生まれたと考えられます。セミナリヨで学び、1582年、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノとともに天正遣欧少年使節として長崎を出発しました。使節は日本のキリスト教大名とイエズス会の目的が重なる事業で、少年たち自身の経験を宣伝の道具だけに還元しないことが必要です。

人生の転機

ポルトガル、スペイン、イタリアを訪れ、教皇グレゴリオ十三世らに面会し、1590年に帰国しました。欧州で受けた華やかな歓迎の一方、航海の危険、植民地交易の航路、通訳と随行者の働きがありました。帰国後はイエズス会へ入り、長い養成を経て1608年に司祭となりました。使節経験だけで生涯を終わらせず、帰国後四十年以上の働きを中心に据えます。

主な活動

1614年の追放令後も日本に残り、長崎周辺や天草などで潜伏しながら信徒共同体を訪問しました。1632年に捕らえられ、翌年10月21日、長崎で棄教を迫られた末に亡くなりました。「私はローマへ行った中浦ジュリアンである」と名乗ったとの伝承がありますが、引用としての原文確定は別審査とし、このページにはQuote登録しません。

信仰上の特徴

欧州訪問の華やかな記憶よりも、帰国後の長い養成と禁教下の司牧を選んだ日本人司祭です。

教会史上の意味と後世への影響

2008年、ペトロ岐部ら187人の同志とともに列福され、日本での共同記念日は7月1日です。現在も福者です。天正遣欧使節を日本と欧州の友好的交流だけとして描かず、宣教、貿易、植民地主義が重なった時代背景を示します。そのうえで、帰国後に日本語と地域関係を用いて共同体を支えた現地司祭として記憶します。

ゆかりの場所

  • 肥前国中浦(日本)

守護

確認できる資料を精査中です。推測では掲載しません。

参照資料

人物伝は以下の資料をもとに編集しています。教会の公式列聖資料そのものではありません。

カトリック中央協議会 — ペトロ岐部と187殉教者

カトリック中央協議会 — ペトロ岐部と一八七殉教者(刊行案内)

関連する教会文書