生きた時代と背景
1920年、ポーランドのヴァドヴィツェにカロル・ユゼフ・ヴォイティワとして生まれました。若くして母、兄、父を失い、1939年のナチ・ドイツ占領で大学が閉鎖されると採石場と化学工場で働きました。地下演劇に参加し、1942年から秘密神学校で学びます。戦争とショアを生き延びた経験を扱う際、彼自身の苦難だけでなく、殺害されたユダヤ人やポーランド市民の固有の歴史を消さない注意が必要です。
聖人を知る・10月22日
ナチ占領と共産主義体制下のポーランドを生き、1978年から二十六年以上教皇を務めた人物です。世界各地を訪れ、人間の尊厳と対話を訴えました。
祈りと言葉
戦争と全体主義を経験し、人間の尊厳と世界的対話を訴えた教皇です。同時に、長い統治の判断は批判的検証から除外されません。
まず、ここから
全4編
1920年、ポーランドのヴァドヴィツェにカロル・ユゼフ・ヴォイティワとして生まれました。若くして母、兄、父を失い、1939年のナチ・ドイツ占領で大学が閉鎖されると採石場と化学工場で働きました。地下演劇に参加し、1942年から秘密神学校で学びます。戦争とショアを生き延びた経験を扱う際、彼自身の苦難だけでなく、殺害されたユダヤ人やポーランド市民の固有の歴史を消さない注意が必要です。
1946年に司祭、1958年に司教となり、第二バチカン公会議に参加して『現代世界憲章』の作成に貢献しました。クラクフ大司教として共産主義政権下の信教の自由と人間の尊厳を主張しました。哲学と演劇への関心を生かし、人を目的として尊重する人格主義を深めました。1978年10月16日に教皇へ選出され、10月22日に教皇職を開始しました。
二十六年余りの在位中、百四回の海外司牧訪問を行い、若者との世界青年の日、ユダヤ教・イスラム教を含む宗教間対話、共産主義体制下の市民への連帯を進めました。1981年には日本を訪れ、広島で戦争の記憶を将来の平和への責任に結びつけました。同年の暗殺未遂後には実行犯を訪ねました。教理、生命倫理、労働、人権について多数の文書を発表し、カトリック教会のカテキズムと教会法典の公布にも関わりました。
一方、在位中に聖職者による性的虐待へ十分な制度対応が取られず、加害を重ねた聖職者や共同体への判断が後に重大な批判と検証の対象となりました。聖人としての尊敬は、統治上の責任を検討しない理由にはなりません。2005年4月2日に亡くなり、2014年に列聖されました。功績と限界をともに見つめ、個人崇拝ではなく、人の尊厳を守るという課題へ読者を戻します。
出来事から読む
人物像と、今へのつながり
現在の生活に引き寄せすぎず、その人自身の時代から考えます。
物語の舞台
ポーランド
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テーマから読む文書:若者
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最終更新日:
Holy See — Biographical Profile of John Paul II
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Holy See — Address at Hiroshima, 1981
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