生きた時代と背景
826年または827年、東ローマ帝国のテサロニケに生まれ、コンスタンティノープルで哲学、言語、神学を学びました。本名はコンスタンティノスで、晩年に修道名チリロを受けました。外交的な任務やクリミア方面での活動を経て、兄メトディオとともに大モラヴィアへの宣教を委ねられます。宣教を一方的な文化移植ではなく、聞き手の言葉で対話する仕事と考えました。
聖人を知る・2月14日
兄メトディオとともにスラヴ語による宣教と典礼に取り組み、言葉と文化を尊重して福音を伝えた修道者です。
祈りと言葉
人々が自分の言葉で信仰を受け取り、祈り、学べるように、翻訳と文字の仕事へ知性を注いだ宣教者です。
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全4編
826年または827年、東ローマ帝国のテサロニケに生まれ、コンスタンティノープルで哲学、言語、神学を学びました。本名はコンスタンティノスで、晩年に修道名チリロを受けました。外交的な任務やクリミア方面での活動を経て、兄メトディオとともに大モラヴィアへの宣教を委ねられます。宣教を一方的な文化移植ではなく、聞き手の言葉で対話する仕事と考えました。
スラヴ語を記すためのグラゴル文字を整え、弟子たちと聖書や典礼文を翻訳しました。現在のキリル文字は後の展開であり、チリロがそのまま現行字体を発明したと単純化できません。それでも、文字と言語の仕事はスラヴ諸文化の発展に大きな基礎を与えました。翻訳には語学だけでなく、概念を別文化でどう理解できる形にするかという慎重さが必要でした。
スラヴ語典礼には反対もあり、兄弟はローマへ赴いて教皇ハドリアヌス二世に説明しました。東西教会の制度や帝国の利害が交差する時代に、彼らを現代の民族国家の所有物として扱うことはできません。地域の人々が自分の言葉で祈り、学べることを支えながら、ローマとの交わりも求めた働きとして捉えます。
869年、ローマで修道誓願を立ててほどなく亡くなりました。2月14日に兄とともに記念され、1980年には二人がヨーロッパの共同保護者とされました。文化を尊重する宣教は、すべての習慣を無批判に肯定することでも、外部の言葉を押しつけることでもありません。翻訳、教育、地域の担い手の養成を通して対話を続けた姿が今日への課題を示します。
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最終更新日:
Holy See — General Audience: Saints Cyril and Methodius
Holy See — Apostolic Letter Egregiae Virtutis
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